いま各所で話題に上っている ホワイトバンド ですが、このホワイトバンドの300円という価格の内訳が問題になっています。キャッチフレーズがほっとけない世界のまずしさと3秒に一人、子供が貧困から死んでいます。ということもあってか、300円の内の幾らかはチャリティー募金として貧しい地域に分配されると思っている人が多いが、それは間違いで、その殆どは制作費、流通費、広告費などに消え、残りはNGOの活動資金になっている実態を知っていますか?と誰かが問い、それに乗じるようにして詐欺や偽善、免罪符などの言葉を使ってホワイトバンドの啓発活動にケチを付け始めたという次第です。
ホワイトバンドの活動はそれ自体が決して募金(寄付)活動が主目的ではないでしょう(少なくとも私は当初からそう感じていました)。それが今になってその目的も知らなかった人達が詐欺だとか騒ぎ立てるのはどうかと思います。ましてやホワイトバンドを買っても一人も救われないなどと言う人も出てくる始末。確かに生産国の中国を中心に日本も含めて甘い汁を啜っている国もありますがそれがどうしたというのでしょうか。300円のうちの殆どが得体の知れないNGOの活動資金になるのが信頼できない?それで?そもそも貧困の原因を生み出している当の本人が提唱しているような矛盾した活動は御免だ?だから?これ以上書くと止まらないので私の現時点での考えの大筋に一番近い 子供騙しの猿仕事日記 を参考にして貰いたいと思います。同じ国籍を持つ者として恥ずかしい。
という言葉にハッとさせられました。私が普段から感じている苛立ちは全てこの言葉に集約されている事に気づかされました。狭い地球で国という概念が私としては面白くないので、同じ人間としてと言い換えた方がしっくりくる様な気がします。
それにしてもこの記事を書くきっかけとなった ほっときたい 世界のまずしさ ですが、経済戦争という言葉をどのような意味で使用しているのかわかりませんが、その大元や裏には軍事戦争(?)武力戦争(?)などによる力の大小があるとは思わないのでしょうか。敗戦国である小国で資源の少ない日本が経済大国と呼ばれるまでになったのだから的な考えが強いのでしょうか。あまりに承服出来ない考えで、言い過ぎかもしれませんがこういった考えの持ち主が戦争を起こす、もしくは終結させないのだろうなと感じました(つまり敗者は切り捨ての図式を謳っている訳ですから)。そして貧困の本質である世界の体制を直視しているのかとも疑問に思いました。本当に日本にその原因はないと思っているのでしょうか。この方が危機感を募らせているように、もう直ぐ日本も貧困の国に仲間入りするかもしれません。いや、もう片足どころか半身以上は浸かっているのかもしれません。そういう日が来る事を考えれば考えるほど、世界が一丸となって貧困と戦う意志があれば救われるのは結果的に自分達ではないのかと感じます。
私としては何か貧困に関する救済活動を普段から日常的に行っている者のみが批判を許されるのではないでしょうかと思う事を書いておこうと思います。ホワイトバンドをファッション感覚にせよ免罪符にせよ、偽善や欺瞞、自己満足だろうとも300円を支払って居る人間と、そうやって一過性の偽善は悪だとか言い、そういう事は普段から常に考えていなければならないんだなどと御託を並べて結局は何もしない人はどちらがどうでしょうか。24時間テレビのチャリティー活動も同じですね。年に一度だけ免罪符を掲げる為に善い事をしたなと自己満足にせよ募金した人と、それは違うだろうと一年に一回すら募金をしない人のどちらがどうでしょうか。活動の意義は意識を高める事と広める事。それで良いではないでしょうか。それが得体の知れないNGOの活動資金に流れるのが嫌なのならば自分の信頼できるNGOに直接寄付をすれば良い。そして ほっとけない 日本の汚さ に参加すれば良いと思もう。
とにもかくにも意識の問題なのです。この活動は力で構築された理不尽な世界の体制を変える為の入口に過ぎないのです。あれこれ言いながら逃げている内は何も言うべきではないと思います。これを機に多くの人が何かを考えて行動するようになれば良いのではないでしょうか。それを否定するだけ否定して終息させてしまい、結局は何も変わらずにそれこそ一過性にしてしまうのはあまりに勿体無いと思います。まあ非難する事によって話題性が盛り上がり、多くの情報に触れる機会が増える事もありますが、それが負(不)の方向へ向かう物ばかりではつまらない。ホワイトバンドのキャンペーンに賛同するかしないかは当然の如く各人の自由な訳ですし、それ自体が悪の方向に進んでいると感じての非難でないのならば、ただの無知と乏しい根拠を起因とした否定的な発言は虚しい。そんなエネルギーがあるのならば自分が本当に善だと思う活動を紹介した方がよっぽど有益だと思います。
それ自体が悪の方向に進んでいると書きましたが、支援活動事態が的を射ていない場合も実際に存在するので自分の目で見極める必要は充分にあるだろうと思います。ホワイトバンドのそれについては以下の記事を参照して下さい。こういった意味で懐疑的になるのは必要な事だと思います。ただし逆に言わせて貰うのならばそれも免罪符ではありませんので気を付けましょう。
様々な角度から自分で考察し、流されずに自分の意思で参加することが必要なんだと思います。考えないで何もしない、考えないで何かする、考えている振りをして何もしない、考えている振りをして何かする、考えて何もしない、考えて何かする、この中ではやはり考えないで何かするのも怖いですが、考えている振りをして何もしないのが一番罪深く感じます。さてダラダラと書きましたが、文章を一晩寝かせて投稿するのを待っている間に私と似た考えを なぜ私はホワイトバンドを身に着けるのか に見つけました。日本人によく見られる意味のないニヒリズムと闘うため。
そうか。こういった言葉を使用すれば良かったのですね。ちなみにホワイトバンドを身に着ける三つの理由も殆ど同じでした。ただ私は一つ目の本来あるべき理由の比重が重いですけれども。
散々迷った結果エントリする事にしました。やはり非の記事数よりも是の記事数が上回った方が良いと思った結果です。それでももしかしたらこのエントリは消えるかもしれませんし、コメントにも応えないかもしれませんが悪しからずお願い致します。